

クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。不定期でお届けしています。
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第二十二回は、音楽学部邦楽科准教授の藤原道山先生。尺八の演奏家としての活動のほか、異分野のアーティストとのコラボレーションや、全国各地での尺八の教育?普及活動など、多彩な活躍をされています。2025年8月、能ホールにてお話を伺いました。
【はじめに】
尺八というと時代劇に出ていた虚無僧が息を力強く吹いて出す尺八の音色を思い浮かべる人が少なくないと思います。今回、藤原道山先生にそれは尺八の特殊奏法である「ムラ息」あるいは「風音」とも言われる、敢えて息の音を含む独自の音色だと教えていただきました。
伝統的和楽器とのイメージが強い尺八ですが、藤原先生は積極的に活躍の分野を広げ、より幅広い人々に尺八の魅力を届けています。
藤原先生がインタビューの場所と指定されたのが音楽学部の建物の2階にある能舞台。先生は羽織袴の正装。私は靴下を脱いで、あらかじめ持参するように指示されていた白足袋をはき、磨き上げられた能舞台に上がりました。舞台の上には能や狂言の小道具として使われる黒漆塗りに蒔絵がほどこされた円筒形の桶、蔓桶(かずらおけ)が二つ置かれ、丸くつるつるしたこのお道具にこわごわと腰を下ろしました。藤原先生は「足袋は必ず履かなければなりません。足の脂がついてはいけないと言われています。神聖な場所であるということもあって道具も決まったモノだけしか置くことができません」と強調されました。邦楽科がある唯一の芸術大学ならではの学びの場で、藤原先生が熱を込めて語ったのは伝えることへの想いでした。
国谷今回の対談の場所として、藤原先生からこちらの能舞台をご提案いただきました。この場所は、日本の国立大学法人の中で唯一の邦楽科がある藝大としては、象徴的な場所でもあると思います。藤原先生にとってここはどういう場所ですか?
藤原学生時代は副科で能の授業をとっていたのでここで稽古をしましたし、尺八の学内試験が行われたりしていました。いろいろな意味で思い出深い場所です。
国谷
藤原先生は10歳で尺八を始めて、山本邦山先生(初代)に師事されてきましたが、あえて藝大にきて勉強をしようと思ったのはなぜですか?
藤原
中学1年生のときに藝祭に来たことがきっかけでした。藝大生の知り合いに誘われて来てみたら、ビッグバンドからガムラン、オーケストラも邦楽もある。「こんな世界があるのか! なんてすごいんだ!」って。美術学部のほうに行けば展示をやっていたり、お御輿があったり。ある意味カルチャーショックでしたね。
国谷
藤原先生のご家族もジャズが好きだったり、お祖母様がお箏をなさっていたり、音楽好きなご一家の中で育ちましたが、藝大は特別な刺激でしたか?
藤原
そうですね。学生たちが一生懸命表現をしている姿に、何かを伝えようとする想いというか、パワーを感じたのでしょうね。それで、僕もここで学びたいと思いました。
国谷
「伝えようとするパワー」、いい言葉です。
名人と言われる人に師事して技を磨いていくのが邦楽の在り方ではないかと思っていたのですが、先生への師事一筋でいくということと、大学で学ぶことのはざまで葛藤はなかったのでしょうか?
藤原
当時は山本邦山先生も藝大で教えられていましたし、葛藤はありませんでした。さきほどお話した藝祭で尺八とオーケストラの演奏会があって、それを見て「この学校に来れば、こういうことが出来る」、オーケストラと演奏するという目標ができていましたし。

国谷
それで、入学されてからは他科の学生ともいろいろなコラボレーションをなさっていたわけですね。そこから学部、大学院、助手時代も含めて8年以上藝大に在籍されていましたが、振り返ると学生生活はどのようなものでしたか?
藤原
学部はあっという間でしたね。高校までは受け身の勉強だったのが、能動的なものに変わったというのが非常に大きくて。自分でこういうことを学びたいと思ったときに、それがどんどん学べる環境でした。あとは、他の科とか西洋楽器の人とも積極的に交流したかったので、いろんな授業を取っていました。作曲科の人に新しい尺八の曲を書いてもらいたくて、作曲科の授業も取ったり。
当時は松下功先生(元音楽学部作曲科教授)がまだ非常勤でいらして、「管弦楽法」というオーケストラの授業を担当されていました。オーケストラの楽器を知って、その次の年ではオーケストラの曲を創作する授業でした。
国谷
作曲もされた、素晴らしい。
藤原
邦楽科の学生で作曲の授業を取る人が少なかったので、松下先生が非常に目をかけてくださいました。そういうご縁もあって、卒業後に一緒にお仕事をさせていただく機会につながりました。作曲科に友人も出来て、それが今にもつながっています。
国谷
8年間藝大にいらしたあとしばらく大学からは離れていましたが、2013年に改めて非常勤講師として戻られ、今では准教授としてまさに藝大の尺八を率いています。演奏活動やプロデュース、作曲など、本当に多彩な活躍をされている中で、どうして大学で教鞭を執るという選択をされたのでしょうか。
藤原
やはり次の世代に伝えるということですね。自分がやっていることは、5年 10年の話ではなく、 何百年、何千年とつながっていく。伝統ってそういうことだと思います。雅楽の方がよくおっしゃるのは、「千年後の人たちに申し訳ないことをしてはいけない」と。後世の人に「あの時代がなかったら良かったのに」と言われないようにと。
そのためには根本的なことを伝えていかないといけない。演奏表現は根本的なものにその